2026-07-26 コメント投稿する ▼
音喜多氏「見たくない権利」論に警鐘、表現の自由との両立は困難
音喜多氏は、法案の根拠として「見たくない権利」を持ち出すことは、表現の自由への制約と不可分であり、むしろ懸念を深めるものだと分析。 日本維新の会の音喜多駿氏は、この玉木代表の説明について、「見たくない権利」というロジックを持ち出したこと自体が、法案の正当性をむしろ損なうものであり、懸念を深める結果になったと指摘しています。
玉木代表「見たくない権利」説明の波紋
国民民主党が提出した、青少年保護などを目的とした法案を巡る議論が、再び活発化しています。国民民主党の玉木雄一郎代表は、自身のYouTubeライブ配信でこの法案について説明し、「見たくない権利を保障する」ものだと位置づけました。この発言は、インターネット上を中心に大きな議論を呼び、表現の自由を制限するもののではないかとの懸念が広がりました。
日本維新の会の音喜多駿氏は、この玉木代表の説明について、「見たくない権利」というロジックを持ち出したこと自体が、法案の正当性をむしろ損なうものであり、懸念を深める結果になったと指摘しています。感情論ではなく、法的な観点から冷静な整理が必要だと、音喜多氏は問題提起しています。
「見ない自由」と「見ない権利」の法的な壁
音喜多氏がまず明確にするのは、「見ない自由」と「見ない権利」という言葉の決定的な違いです。誰かが何かを表現・提示しても、それを見ないでやり過ごすことは、個人の自由として当然保障されています。これは「見ない自由」であり、他者に何ら義務を課すものではありません。
しかし、「見ない権利」と称した場合、それは「他者に見せない義務」を法的に発生させることを意味します。つまり、表現する側や広告を出す側に対して、「見せるな」という強制力を持つことになるのです。このため、音喜多氏は、「見たくない権利の保障」は、必然的に表現の自由への制約と表裏一体の関係にあると断じます。玉木代表が「表現の自由は守る」としながら「見たくない権利は保障する」と説明する姿勢は、それ自体が論理的な矛盾を孕んでいると、音喜多氏は厳しく批判しています。
「とらわれの聴衆」判例にみる最高裁の判断
この「見たくない権利」と表現の自由との関係性について、音喜多氏は過去の最高裁判例に注目します。特に、1988年(昭和63年)に最高裁が判断した「とらわれの聴衆」事件は、まさにこの論点を扱ったものだと指摘します。この事件では、地下鉄の車内放送について、乗客が「聞きたくないのに聞かされ、精神的苦痛を受けた」として、その放送の差し止めや損害賠償を求めていました。電車内という閉鎖空間では、乗客は放送から逃れられない、いわば「とらわれの聴衆」であるという主張でした。
しかし、最高裁はこの乗客の請求を認めませんでした。音喜多氏が注目するのは、この判決における伊藤正己裁判官の補足意見です。伊藤裁判官は、聞きたくない音から「心の静穏を害されない利益」に一定の配慮を示しつつも、それを「人格的利益」と位置づけ、表現の自由のような憲法上の「権利」とは認めませんでした。さらに、公共の場所では、自宅のような私的な空間とは異なり、このような利益は大きく制約されると述べています。
音喜多氏は、最高裁が「権利」として正面から認めなかった背景には、仮にそれを認めてしまえば、他者の表現の自由と至るところで衝突し、社会全体が正常に機能しなくなる、という極めて慎重な判断があったと推察します。玉木代表が掲げる「見たくない権利の保障」という考え方は、この最高裁が避けた一線を、立法によって踏み込もうとするものだと、音喜多氏は危惧しています。
視覚情報と公共空間での「見ない権利」の限界
さらに音喜多氏は、今回の論点が「聞く」ことではなく「見る」ことである点も、判例の理解に照らせば主張をより難しくすると指摘します。過去の判例解説などでは、視覚情報は聴覚情報と異なり、容易に目をそらすことで外部からの刺激を回避できると指摘されています。耳は物理的に塞ぎにくいですが、目は閉じることが可能です。そのため、法律上も「見たくない」という感情に対する保護は、「聞きたくない」という感情よりもさらに弱くならざるを得ない、というのが原則的な考え方です。
加えて、駅前広場のように多くの人々が行き交う場所は、判例上「パブリック・フォーラム」として、むしろ表現の自由が特に尊重されるべき場と位置づけられてきました。2022年に大阪駅で「萌え絵広告」が問題視された際も、憲法訴訟に詳しい弁護士が、公共の場所であるという事実は、むしろ「見たくない」という主張側には不利に働く可能性が高いと指摘していました。すなわち、公共空間だからといって表現が抑制されるのではなく、公共空間だからこそ表現の自由がより強く保障される、というのが判例が積み上げてきた知恵なのです。音喜多氏は、この判例の基本線は、世間の直感とは逆の方向性を示していると分析しています。
技術的解決こそ「見たくない」への最良の処方箋
「それでも、見たくないという気持ちには応えるべきだ」という声があることは、音喜多氏も理解し、共感を示しています。しかし、その解決策は、法的な「権利」を新たに創設することではない、と彼は断言します。
見たくないものを見ないで済むという利益を、法的に構成し直すならば、それは「自分が見ないようにする行為を、誰かに妨げられない」という、個人の側で「見ない」という選択を完遂できる仕組みに行き着くはずだと音喜多氏は主張します。具体的には、ウェブサイトのフィルタリング機能、スマートフォンのペアレンタルコントロール、あるいは広告のオプトアウト設定など、個々の利用者が主体的に「見る」「見ない」を決定できる技術的な対策こそが、その答えであると強調します。
これは、音喜多氏がかねてから主張してきた「技術的対処が先」という考え方とも完全に一致します。見たくない人が見ないで済むような技術を磨き、普及させることと、公権力や特定の団体が「何を見せてよいか」の線引きをすることとは、似ているようで全く逆の解決策なのです。
まとめ
見たくないものを見ないで済む社会の実現は、表現を制限するのではなく、個々人が「選べる」技術を増やすことで達成されるべきである。音喜多氏は、過去の判例が示してきた、表現の自由を最大限尊重しつつ、個人の選択肢を広げるという知恵を、立法に携わる者が軽んじるべきではないと自戒を込めて訴えています。今後も表現の自由を守る立場から、この議論の動向を注視していく姿勢を示しました。