2026-08-16 コメント投稿する ▼
音喜多氏、コミケ演説で指摘:表現規制は「善意」から始まる危うさ
この法案については、当ブログでも条文に沿って懸念を表明していましたが、音喜多氏は、その法案を提出したのが「表現の自由を守る」と掲げる政党や政治家であったことに、議論の構造的な問題があるのではないかと指摘しました。 自らが「表現の自由を守る」という看板を掲げている政治家や政党でさえ、この「善意」というスイッチが入った瞬間に、その本来の立場から逸脱し、規制に傾いてしまう可能性があるというのです。
コミケ前演説、表現規制への警鐘
毎年8月に東京ビッグサイトで開催されるコミックマーケット(コミケ)は、世界最大級の同人誌即売会として知られています。膨大な数のクリエイターが集い、多様な作品を発表する場である一方、その表現内容を巡っては、しばしば社会的な議論や規制の動きが取り沙汰されてきました。こうした状況を受け、コミケ開催時期に合わせて、会場周辺では「表現の自由」を守ることを訴える政治家らによる街頭演説が行われています。
音喜多氏は、2026年8月15日に開催されたコミックマーケットC108に合わせ、国際展示場駅前で行われた「表現の自由」超党派コミケ街宣に参加しました。演説に臨むにあたり、音喜多氏は「直前が国民民主党の方々なので話しづらい」としつつも、「批判ではなく、今後に向けた前向きな形でお話ししたい」と意気込みを語っていました。
演説当日、音喜多氏の登壇時には「文字通りの豪雨」に見舞われたというエピソードが、自身のSNSでユーモラスに語られています。これは、表現規制を巡る議論の難しさや、それに伴う「嵐」のような状況を象徴していたのかもしれません。
昨年(2025年)に提出され、国会閉会により成立しなかった「エロ広告規制法案」についても、音喜多氏は言及しました。この法案については、当ブログでも条文に沿って懸念を表明していましたが、音喜多氏は、その法案を提出したのが「表現の自由を守る」と掲げる政党や政治家であったことに、議論の構造的な問題があるのではないかと指摘しました。
「善意」から始まる規制の構造的危うさ
音喜多氏が演説で最も強調した論点の一つは、「表現規制の多くは、悪意ではなく善意から始まる」という点です。例えば、「子どもに性的な広告を勝手に見せたくない」という思いは、多くの人が共感するものであり、音喜多氏自身も三児の父として、またPTA会長としてもその感覚は理解できるといいます。
しかし、こうした誰もが反対しにくい「善意」が、規制を推進する際の入口となってしまうことが、表現規制議論の難しさの根源であると音喜多氏は指摘します。なぜなら、「子どもを守る」という大義名分のもとでは、規制の条文の細部を吟味したり、自由な表現のあり方を論じたりする声が、あたかも冷酷なものとして受け止められかねないからです。この「善意」のフィルターを通ることで、規制は止まらず、徐々にその範囲を広げていく危険性を孕んでいます。
さらに厄介なのは、この「善意」に流されるのが、必ずしも規制推進派だけではないという構造だと音喜多氏は分析します。自らが「表現の自由を守る」という看板を掲げている政治家や政党でさえ、この「善意」というスイッチが入った瞬間に、その本来の立場から逸脱し、規制に傾いてしまう可能性があるというのです。音喜多氏は、これは動機を疑うのではなく、あくまで構造的な問題であるとし、自分自身や所属する日本維新の会も、この危うさと無縁ではないと警鐘を鳴らしました。
自分の好きな表現を守るために
音喜多氏は、規制は必ず「みんなが嫌がっているもの」から始まる、という原則を指摘しました。これは、一般的には擁護しにくい、あるいは一部の人々にしか受け入れられないような表現から、規制の線引きが試みられる傾向があるということです。
一度、表現に対する規制の線が引かれ、「前例」ができてしまうと、その線は徐々に内側へと拡大していく可能性があります。その結果、当初は規制の対象外だった、あるいは自分自身が愛好している表現までもが、いつの間にか規制の網にかかってしまうという事態に陥りかねません。
このような状況を避けるためには、一見すると遠回りに思えるかもしれませんが、「自分の好きな表現を守るために、自分の好きではない表現も守る」という姿勢が不可欠だと音喜多氏は訴えます。これは、表現の自由という権利が、一部の支持者だけでなく、社会全体で広く、たとえそれが少数派の意見や文化であったとしても、守られるべきであるという考え方に基づいています。
市民の声で守られる表現の自由
音喜多氏は、近年の表現規制を巡る動き、特に「エロ広告規制法案」が成立せずに廃案となった経緯に触れ、この軌道修正は、議論が自然に是正された結果ではないと指摘しました。その背景には、クリエイター、ユーザー、そして関連業界の人々が、それぞれの立場で粘り強く声を上げ続けたことがあると強調します。
すなわち、表現の自由という権利は、社会がそれを保障する仕組みとして存在しているものの、それを維持し、守り続けるためには、常に市民一人ひとりが意識を持ち、声を上げ続けることが不可欠なのです。放置しておけば自然に保たれるものではなく、社会の関心と行動によってかろうじて守られている権利である、というのが音喜多氏の主張の核心です。
そして音喜多氏は、自身も国政の場において、法案の条文一つひとつを丹念にチェックし、表現の自由を守るための役割を果たしていく決意を表明しました。コミケという創作文化の祭典で、表現の自由という普遍的な価値について議論を深めることの意義を改めて示した形です。