2025-10-05 コメント投稿する ▼
山添拓議員「働き方」批判に疑問 高市早苗新総裁の“馬車馬のように働く”発言は覚悟の表れ
高市氏の「馬車馬のように働く」という表現は、政治家として「国民の生活を守るため、身を粉にして努力する」という意志を表しています。 高市氏が語った「馬車馬のように働く」は、まさに国民の苦しさを知る政治家としての自覚を示したものです。 今回も同様で、「馬車馬のように働く」という言葉を“精神論”として片付け、政治家が努力する姿勢そのものを否定するような発言をしています。
高市新総裁の「馬車馬のように働く」発言に批判が集まる理由
高市早苗新総裁が就任会見で語った「馬車馬のように働く」という言葉が、思わぬ波紋を呼びました。この発言は、政権の再建や政策実行に全力を尽くすという覚悟を示したものでした。しかし、一部の野党議員や評論家がこの言葉尻を取り、「長時間労働を美化している」と批判しました。
中でも注目されたのが、日本共産党の山添拓参議院議員の投稿です。
山添議員はSNSで、高市氏の発言に対してこう指摘しました。
ワークライフバランスを捨てるという高市新総裁の発言に賞賛や擁護のコメントが散見され、なかには『とことん働ける自由を』という者まで。
しかし、人は働き過ぎると心や身体を壊す。
悲嘆に暮れる過労死遺族がどれだけの思いでたたかい、規制を求めてきたか。
悪しき精神論は美談にならない。
働く自由より、休む権利を守る社会にすべきだ。
確かに労働環境の改善は重要です。ですが、今回の高市氏の言葉は「無理に働け」という呼びかけではなく、「責任を持って国を立て直す」という政治家としての覚悟を示したものでした。それを「働きすぎ批判」にすり替えて攻撃するのは、論点のずれた批判といえます。
本来の意味は「政治家としての責任を果たす覚悟」
高市氏の「馬車馬のように働く」という表現は、政治家として「国民の生活を守るため、身を粉にして努力する」という意志を表しています。
もちろん、社会全体に長時間労働を奨励する意図ではありません。ところが山添議員は、その言葉を切り取って「労働問題」にすり替え、まるで国民全体に「休むな」と言っているかのように批判しました。
しかし今、国会議員に求められているのは、理念よりも実際に国を動かす力です。国民が求めているのは「働き方の批評」ではなく、「経済を立て直すための実行力」です。高市氏が語った「馬車馬のように働く」は、まさに国民の苦しさを知る政治家としての自覚を示したものです。それを言葉尻で否定することは、責任を果たす政治家の姿勢を貶めることにほかなりません。
山添議員と日本共産党の「批判だけの政治」
山添議員をはじめとする日本共産党は、これまでも政府の発言に対して繰り返し批判をしてきました。
しかし、その多くは政策の中身よりも、言葉や表現への攻撃に偏っています。今回も同様で、「馬車馬のように働く」という言葉を“精神論”として片付け、政治家が努力する姿勢そのものを否定するような発言をしています。
では、山添議員や日本共産党がこれまで「日本国民のために何を成し遂げたのか」。国会での質問時間の多くを政権批判に費やし、現実的な経済政策や安全保障の提案は乏しいままです。国民の多くが物価高や不安定な雇用に苦しむ中で、批判のための批判を続ける政治に意味はあるのでしょうか。
政治家とは、本来「働く」ことそのものが使命です。理想を語る前に、現場を知り、汗をかき、政策を動かす。それこそが「国民のために働く政治家」の姿です。批判だけで何も動かさない姿勢こそ、国民が最も失望する政治の形だといえます。
働く政治、語るだけの政治
高市新総裁は、経済再生や安全保障など、多くの課題を抱える中で「休まず取り組む」と明言しました。その姿勢は、日本が抱える現実の厳しさに真正面から向き合う覚悟の表れです。
一方で、山添議員や日本共産党が語るのは理想や批判ばかりです。どんな立場の政治家であっても、言葉を超えて実行で示さなければ信頼は得られません。高市氏の「働く覚悟」と、山添氏の「批判する立場」。この違いこそが、いまの政治の分かれ道を象徴しています。
政治家は、まず自らが「馬車馬のように働く」姿を見せるべきです。それができないなら、どんな理想を語っても説得力はありません。批判よりも行動。そして、国民のために実際に働く政治こそが、いま求められているのです。