2025-08-07 コメント投稿する ▼
石破首相の戦没者追悼式「反省」式辞に谷口智彦氏が懸念 「御霊に反省を迫るのか」と批判
谷口智彦氏が戦没者追悼式での「反省」「謝罪」発言に強い懸念 石破首相の姿勢に異論
「御霊にも反省を迫るのか」―象徴的な批判
2025年8月7日、日本会議の谷口智彦会長が、石破茂首相が15日に予定されている政府主催「全国戦没者追悼式」で読み上げる式辞に対し、異例とも言える強い言葉で懸念を表明した。特に「反省」や「謝罪」といった表現が盛り込まれる可能性に対し、「御霊にも反省を迫るのか」と疑問を呈し、先人への冒涜になりかねないと警鐘を鳴らした。
谷口氏は、「戦後われわれの父祖は、痛惜の念をもってアジア諸国との和解に励んだ。その営みも、首相の発言ひとつで“反省”という言葉に括られてしまってよいのか」と語り、過去の努力が一言で否定される危うさを指摘した。
「戦没者を悼む場で、なぜ政治的発言を混ぜるのか」
「御霊にまで“反省しろ”と言うのは、さすがにおかしい」
「石破首相の“謝罪型リーダーシップ”には違和感がある」
「また謝るのか…って思ってしまうのは自分だけじゃないはず」
「これ以上、過去の日本を責めることに何の意味があるのか」
ネット上でも、「追悼式の本質を見失っている」との意見が広がり始めている。
過去の式辞と比較される政治的含意
歴代首相の式辞において、「反省」や「謝罪」が含まれた事例は存在する。民主党政権時代、菅直人元首相や野田佳彦元首相はいずれも「アジア諸国に損害と苦痛を与えたことを深く反省する」と明言した。しかし、これらの発言は保守層からの批判も根強く、「戦没者を追悼する式典であって、政治的な贖罪をする場ではない」とする意見が後を絶たなかった。
谷口氏は今回、「首相が第三者に向かって反省を述べるとしたら、それは戦没者の御霊に『反省を伝えてくれ』と命じるようなものだ」と批判。さらに、「政治的な主張を式辞に込めるのは、本来の式典の趣旨から外れる行為であり、無用、不徳の所業だ」と断じた。
このような指摘は、追悼式の在り方そのものへの問題提起でもある。追悼の意味とは何か。国民が静かに戦没者に祈りを捧げるための場が、過剰に政治的な色を帯びることで分断や誤解を生む可能性も否定できない。
石破首相の姿勢に「自己演出では」との声も
谷口氏はさらに、石破首相自身の資質についても疑問を投げかけた。自民党総裁選で首相の座を勝ち取ったものの、「その過程で多くの同志の政治生命を奪い、なお恬淡とした態度を装う人物に、果たしてどれほどの重みがあるのか」と辛辣に評した。
そして、「節目の年に首相の座に居合わせたことを、何か歴史的な演出のチャンスと捉えているのだとすれば、それは我欲を通そうとする傲慢でしかない」とも語った。
この発言は、石破首相が“歴史に名を残す”ような式辞を狙っているとの見方を示唆しているとも解釈できる。政治的メッセージを乗せた言葉を用いることで、国内外への印象を意識しているのではないかという懸念だ。
追悼式とは何か、いま一度問われる時
谷口氏は最後に、追悼式の原点についても言及した。「『全国戦没者之霊』の柱を立て、周囲を菊花で囲む。その設えは、御霊がそこに帰ってきて我々の祈りを聞いてくれると信じているからこそだ」とし、単なる政治イベントではなく、厳粛な精神の場であることを強調した。
確かに、国のために命を捧げた英霊に対して、遺された我々ができる最大の敬意の示し方は「静かに手を合わせ、心から祈ること」であって、時の政権の主張を託すことではないはずだ。
「未来に向けた平和の誓い」は必要だが、それは過去への“謝罪”ではなく、過去を乗り越えて積み重ねてきた和解と信頼の歴史を踏まえた上でこそ成り立つ。谷口氏の指摘が、式辞を通じた政治的発信に歯止めをかける一石になるのか、注目が集まっている。