2025-07-19 コメント投稿する ▼
「年金のために延命」は正しいのか?高齢者医療とお金のジレンマ、制度の見直しが必要な理由
命の判断基準が「お金」になっていないか
医療現場や介護の最前線では、命に関わる選択が「経済的事情」に左右されるケースが現実に起きています。新垣淑豊氏は、自身のサイトでこの深刻な問題を取り上げました。
救急の現場で、90歳を超えて寝たきり、意識もなく、心停止している高齢者に対して、家族が「できる限りのことをしてください」と要望する――そんな場面が実際にあるといいます。なぜそのような判断をするのかと尋ねると、返ってくるのは「年金が止まったら生活できないから」との言葉。>「年金が止まったら困るから延命してほしい」――この発言は決して冗談ではなく、現場で繰り返されている“現実”なのです。
制度が命の判断に影を落とす
人が亡くなると、年金や介護保険といった公的給付は、基本的に翌月から支給が止まります。そのため、「もう少しだけ生きていれば、あと数万円受け取れる」といった打算が、家族の中に芽生えることも珍しくありません。新垣氏はこうした仕組みが、命の選択に不自然な影響を及ぼしていると警鐘を鳴らします。
命をつなぐ理由が本人の意思ではなく、金銭的な損得になっていることがある
という状況は、医療制度の設計そのものに問題があるとも言えるでしょう。
「人生会議」の必要性と現実的なハードル
新垣氏が提案する一つの解決策が「人生会議(ACP)」の活用です。本人・家族・医療関係者が、元気なうちから終末期医療について話し合っておくことで、本人の意思を最大限に尊重する体制を整えるという考え方です。
しかし、日本では「死について語るのは縁起でもない」という風潮が根強く、こうした準備が後回しにされがちです。その結果、いざという時に家族が突然重い判断を迫られ、「本人の意思がわからないまま」「生活のために延命を選ぶ」といった事態に陥ってしまうのです。
一度始めた延命は、止められない
延命処置は、いったん開始してしまうと「途中でやめる」という選択が極めて難しくなります。たとえ医療的に回復が見込めなくても、人工呼吸器や点滴を外す行為が“殺人”に問われる可能性があるからです。だからこそ、新垣氏は延命の「スタート」を慎重に選ぶべきだと強調します。
始めてしまえば、止められない。その重さを、私たちはもっと意識すべきではないか
という言葉には、命の現場を見つめ続けてきた者としての切実な思いが込められています。
命の価値を、制度とともに見直す時
令和7年7月の参議院選挙では、医療費削減の議論もなされましたが、こうした制度の“隙間”に置かれた命の現状については、議論が十分に尽くされていないと新垣氏は指摘します。
延命治療の是非は人それぞれの価値観に委ねられる問題です。しかし、「お金のために命を延ばす」ことが当たり前になってしまっている現状を、私たちは放置してはいけないのではないでしょうか。
制度的な変革と本人の意思を尊重する仕組みづくり
新垣氏は、以下のような対策を提案しています。
* 本人の意志を文書で残す「リビングウィル」の普及
* 人生会議(ACP)の制度的な推進と啓発
* 死亡後も一定期間、年金や介護補助を継続する制度の整備
これらの提案は、「お金の都合ではなく、本人の意志で最期を決められる社会」を実現するための第一歩です。
誰もが、自分の最期を自分で決められる社会。命が‘お金の都合’で左右されない社会。
新垣氏のこの言葉が、多くの人に届き、社会全体でこの現実を見つめ直す契機となることが求められています。