2025-10-05 コメント投稿する ▼
新垣淑豊氏が論じる「強者排除」と弱者装い圧力の問題
沖縄県議(自民党)・新垣淑豊氏は、自身のサイトや発言を通じて、「強者だから差別ではない」という論理に異を唱えています。 彼によれば、「強者だから差別できる」という論は、差別概念の意味を空洞化させかねません。 「強者だから差別できる」という論理を見逃せば、社会的排除を正当化できる拡張が許されてしまいます。
新垣淑豊氏の主張:強者排除論への異議
沖縄県議(自民党)・新垣淑豊氏は、自身のサイトや発言を通じて、「強者だから差別ではない」という論理に異を唱えています。新垣氏は、強さで差別の可否を決める考え方は根本的に誤っており、人間を個人として見る視点が欠如する危険があると指摘します。
特に、自衛隊員など「国家の武力組織に属する者」と見なされがちな職業に対して、職業を理由とした排除や制約を論じる際、組織的な力と個人の尊厳を混同してはならないと強調します。彼によれば、「強者だから差別できる」という論は、差別概念の意味を空洞化させかねません。
自衛隊員差別論をめぐる対立と新垣氏の反論
この論争を巡って、大阪公立大学の明戸隆浩准教授らは「自衛隊員は職業を自ら選んだから、職業差別には当たらない」との見解を示していました。これに対し、新垣氏は自らのSNS・発言で強く反論し、次のように述べています。
この論理を突き詰めれば、女性が政治家を選んだからセクハラも仕方ない、外国人が来たから差別も我慢すべき、という暴論を正当化しかねない
職業を理由に意見表明や権利を否定するのは差別と呼ぶべきだ
自衛隊員も市民の一人として尊重されるべきだ
学問の自由は大切だが、差別を肯定する教育は問題だ
議論を通じて差別の定義を明確にすべきだ
上記は、新垣氏が公開の場で訴えた典型的な主張を整理したものです。彼は、「差別の本質は、選択かどうかではなく、不合理・不当な扱いにある」と繰り返し主張しています。
弱者を装う脅迫的圧力への批判的視点
ただし、社会には「弱者を装って、実際には脅迫・圧力を伴う主張を押し付ける」ような行為への警戒も根強くあります。こうした見方では、被害者を名乗る者が発言削除、謝罪、賠償を過度に求めたり、周囲を萎縮させたりする場面が問題視されます。
この立場からは、「正当な抗議・批判」と「過剰な強要・脅迫行為」を峻別すべきだ、という主張が出されます。弱者性を盾にして他者の自由や権利を抑え込む行動を許すことは、民主主義の根幹を揺るがすとの懸念です。
つまり、抗議や批判を許容しつつ、その手段が行き過ぎた圧力を伴うなら、それを批判の対象とするべきだという立場が共通の合意になりつつあります。
交錯する論点:排除・抗議・限界
新垣氏の主張も、弱者装い批判も、それぞれが現代の社会でぶつかり合う難しい論点を含んでいます。
「強者だから差別できる」という論理を見逃せば、社会的排除を正当化できる拡張が許されてしまいます。逆に、弱者を主張する者への批判を強めすぎると、真正な抗議・表現活動が萎縮してしまう恐れがあります。
このはざまにあるのは、表現・抗議の自由、差別・排除の境界、責任ある言説運用という問いです。どの立場も単独で正しいわけでなく、バランスと議論の明確性が問われます。
差別・排除・責任を問い続ける社会へ
新垣淑豊氏の主張を通じて問われるのは、「誰が差別の対象になりうるか」という単純命題だけでなく、「差別を定義し、排除を批判する視点をどう立てるか」です。
一方、「弱者性を装った脅迫行為」批判は、抗議活動の手段への慎重さを私たちに突きつけます。民主主義社会では、声なき者の声を守りつつ、過剰な圧力を防ぐ制度と倫理が必要です。
誰を守るかよりも、どのように共に議論し、意見を交わすか。答えは一つではありませんが、問いを放棄しないことこそが成熟社会の出発点でしょう。