2026-02-27 コメント投稿する ▼
大学教授による首相への不適切投稿:SNS時代の倫理と教育者の責任を問う
2026年2月、静岡市に拠点を置く常葉大学の浜川栄教授が、自身のSNS上で高市早苗首相に対して極めて不適切な投稿を行ったことが明らかになりました。 2021年には、当時の安倍晋三元首相に対して「逮捕めんどくせえからいきなり銃〇(じゅうさつ)でもいいな」という、暴力を直接的に肯定するような投稿を行っていたことが判明しました。
SNSでの不適切な発言が波紋を広げる
2026年2月、静岡市に拠点を置く常葉大学の浜川栄教授が、自身のSNS上で高市早苗首相に対して極めて不適切な投稿を行ったことが明らかになりました。浜川氏はX(旧ツイッター)において、高市首相の名前をもじり「高鬱(こううつ)とか鬱市(うついち)と呼ぼう」といった内容を投稿しました。
この発言は、単なる政治批判の枠を超え、特定の病名を揶揄の道具として使用している点から、ネット上で大きな批判を浴びることとなりました。大学側はこの事態を重く受け止め、2月26日に公式ホームページで声明を発表しました。
大学は、投稿主が自学の教員であることを認めつつ、「他者の誹謗中傷に相当する投稿が確認された」と説明しています。教員個人の名前こそ伏せているものの、大学の行動規範に反するものとして「厳正に対処する」との方針を打ち出しました。
言葉の背景と「鬱」という表現の危うさ
今回の投稿には、ある種の下地が存在していました。文芸評論家の斎藤美奈子氏が、2026年2月18日付の東京新聞のコラムにおいて、選挙結果に対する市民の落胆を「高市鬱」という言葉で表現していたのです。浜川氏の投稿は、このコラムの内容を引用する形で行われました。
しかし、政治的な不満を表現するために「鬱」という言葉を安易に用いることは、実際の精神疾患に苦しむ当事者やその家族を深く傷つける行為です。病気は個人の尊厳に関わる問題であり、それを政治的なレッテル貼りに利用することは、人権尊重の観点から許されるものではありません。
特に、教育者という立場にある人物が、こうした差別的なニュアンスを含む言葉を拡散させたことの社会的影響は計り知れません。SNSは私的な空間であると同時に、瞬時に世界中へ情報が拡散される公的な性質も併せ持っています。その境界線を見誤った代償は、極めて大きいと言わざるを得ません。
過去の過激な投稿と暴力の肯定
調査が進むにつれ、浜川氏の過去の投稿内容も次々と明るみに出ています。2021年には、当時の安倍晋三元首相に対して「逮捕めんどくせえからいきなり銃〇(じゅうさつ)でもいいな」という、暴力を直接的に肯定するような投稿を行っていたことが判明しました。
周知の通り、安倍元首相はその翌年である2022年に実際に銃撃事件の犠牲となっています。事件の前にこのような投稿を行っていた事実は、単なる「過激な冗談」では済まされない重みを持ちます。また、保守派の人物に対しても「手足の1本も無くならないと気付かないだろう」といった、身体的な危害を示唆する発言を繰り返していました。
これらの投稿からは、特定の政治的立場を持つ相手に対して、人間としての尊厳を否定し、暴力的な手段を容認するような危険な思想が垣間見えます。学問の自由や表現の自由は尊重されるべきですが、それは他者への殺傷予告や暴力の教唆を許容するものではありません。
大学側の対応と行動規範の重要性
常葉大学は、今回の事態を受けて「他者の人格と人権を尊重し、不利益を与える言動を慎み、差別を排除する」という行動規範を改めて強調しました。大学という組織は、多様な価値観を認め合い、論理的な対話を通じて真理を追究する場であるはずです。
大学事務局は取材に対し、個人情報の観点から詳細な回答を控えていますが、ホームページ上での「厳正に対処する」という言葉には、組織としての危機感が表れています。教育機関としての信頼を回復するためには、形だけの謝罪ではなく、なぜこのような事態が防げなかったのかという根本的な検証が必要でしょう。
また、教員がSNSを利用する際のガイドラインの策定や、コンプライアンス意識の徹底も急務です。個人の発信が大学全体のブランドや信頼を失墜させるリスクを、全教職員が再認識する必要があります。
データジャーナリズムの視点:SNS社会の課題
今回の事件をデータジャーナリズムの視点で分析すると、SNSにおける「エコーチェンバー現象」の危うさが浮き彫りになります。自分の意見に近い情報ばかりに触れることで、過激な言動が仲間内で称賛され、社会的な常識から逸脱していくプロセスです。
浜川氏のような専門知識を持つ教授であっても、SNSの閉鎖的なコミュニティの中では、自らの発言が持つ暴力性や差別性に無自覚になってしまうことがあります。政治批判が人格否定にすり替わり、さらには病気や身体的特徴を攻撃の材料にするという、議論の劣化が進行しているのです。
私たちは、SNS上での言葉が現実世界にどのような影響を及ぼすかを、今一度深く考えるべきです。匿名性の影に隠れず、また肩書きに甘んじることなく、一人の人間として責任ある発信が求められています。今回の事件は、デジタル社会における教育者の在り方、そして私たちの言葉の使い道について、重い課題を突きつけています。