2025-10-24 コメント投稿する ▼
木原稔官房長官「中国祝電」事実確認回避 高市早苗首相就任で信頼の儀礼が崩壊
2025年10月24日、木原稔官房長官は記者会見で、高市早苗首相の就任に際し、習近平国家主席ではなく、李強首相(中国)による祝電が送られたという報道について、「祝電の有無を含め、個々のやり取りに答えることは差し控える」と述べ、事実関係の確認を避けました。
「中国祝電」問題で浮上した外交の曖昧さ
2025年10月24日、木原稔官房長官は記者会見で、高市早苗首相の就任に際し、習近平国家主席ではなく、李強首相(中国)による祝電が送られたという報道について、「祝電の有無を含め、個々のやり取りに答えることは差し控える」と述べ、事実関係の確認を避けました。
この発言は、外交儀礼として一般的に送付されてきた祝電の送付者が変わった可能性を暗示するもので、外交上の信頼・慣例の両面で注目されています。
過去の慣例と今回の対応のギャップ
習近平国家主席は、2013年の就任以降、過去の日本の首相(例:菅義偉・岸田文雄・石破茂)就任時には、就任当日に祝電を送っていたとされます。
今回、「習氏ではなく李強氏から」という報道は、こうした慣例からの逸脱として捉えられてもおかしくありません。にもかかわらず、木原氏は「中国とは日頃からさまざまな外交上のやりとりをしている」と述べ、慣例的な祝電の有無にまで明確に言及しなかった点が、外交管理体制に疑問を投げかけています。
信頼は数字や慣例から築かれる
外交というものはしばしば「言わずとも分かる慣例」の上に成り立っています。祝電ひとつをとっても、受け取る側・送る側それぞれが「誰から」「いつ」「どういう表現で」送られたかを理解していることで、信頼関係の一部が維持されるのです。
今回のように、祝電の「送付者が誰か」という点まで曖昧にされると、「外交儀礼を軽視しているのではないか」「中国側との意思疎通に齟齬があるのではないか」という疑念が生まれます。特に近年、地域の安全保障環境が緊迫する中で、
・祝電という儀礼をめぐる対応が日中関係の“微調整”として機能してきたこと
・それゆえに、変化があれば受け手側も対応を変える可能性があること
をふまえると、木原氏の「差し控える」という回答は、行動として受け止められやすいリスクを孕んでいます。
私は、立場から言えば、外交慣例のズレを軽く見ている行政姿勢は問題だと考えます。外交を“形だけ”ではなく、しっかりと管理・説明できる制度設計こそ、国益を守る上で重要です。
国民・マスメディアにとっての意味
この件が国民にとって意味するのは、「政府は外交儀礼も含めた細部にまで説明責任を果たしているのか」という視点です。ただ「祝電が送られたかどうか」を問うだけではなく、
・誰から、どの立場で送られたのか
・なぜ従来と異なる扱いになったのか
・それは日中関係や政策判断にどのような影響を及ぼすのか
といった“背景説明”がなければ、説明責任とは言えません。
今回、木原官房長官は「差し控える」として事実確認を避けたため、国民の不信を募らせる可能性が高いのです。
仕組みとして説明責任を強めよ
祝電ひとつの問題と侮るべきではありません。外交は積み重ねであり、慣例・儀礼・形式が信頼構築の一端を担っています。今回、政府側がその「誰が祝電を送ったか」という基本的問いに明確に答えなかったことは、説明責任という観点から見ると後退であり、国民の疑念を生む行動と言えます。
政策論としても、外交慣例や儀礼を軽視する姿勢は、広く「この政府は細部を省略している」という印象を与えかねません。私は強く言います:政府が公表・説明すべきは数字や法案だけではない。儀式・慣例・形式――つまり“信頼の仕組み”まで説明できてこそ、国の政策・外交は信用に値するのです。